ヨカミエブログ

自然享受権(ヨカミエヘンオイケウス)について

まず否定、それから共存

フリーソフトとその後のオープンソースのカルチャー

ヒッピーとその後のバーニングマンのカルチャー

 

を見ていて感じる。オープンソースは15年も関わっているので、かなり詳しい方だと思う。

一方ヒッピー、バーニングマンはあまり体験していないので、こちらは印象だけ。

 

どちらにも共通するのは、カウンターカルチャーとしての歴史。

既存の考えに対して、カウンターとして価値観の否定や原点への回帰から入る。

 

フリーソフトの場合は、次のような順序

もともとソフトウエアはフリーであった

ソースがクローズな商用アプリが増える

商用はダメ、すべてのソフトはフリーでなければ!

 

という流れ。

 

ヒッピーのほうは

 

アメリカに逃げてきて最初は共同体生活

商業が社会、伝統が固まってくる

商業主義ダメ、共同体生活に戻ろう

 

という流れ。

どちらも、「今はダメ!昔に戻ろう」がキャッチコピーになる。

でも、メインカルチャーがなぜメインになったかというと、それが時代に合っていたから。時代が変化しているとか、負け組が固定化されてしまっているとか、カウンターカルチャーが起こるべき要因はあるけれども、そもそも自然な進化を完全否定してしまうと、それはそれでやっぱり時代に合わなくなってしまう。

 

バーニングマンオープンソースのカルチャーは、その前に来ていた、ヒッピーやフリーソフトに比べて、メインの世界(Default World)とそこらへんをうまいことやっている。

 

完全否定ではなく、

「既存の世界も必要だよね、だけどそれだけじゃ足りなくない?こういうのもたまにはどう?」

という感じの提案型になっていて、メイン側とうまく共存している。

メイン側も、自分たちの不完全さを理解しているので、ある意味ガス抜きとして活用しているのだ。

 

オープンソースでいえば、用途を分けることで。

同じソースコードを商用でも、フリーでも使えるような柔軟なライセンスを設定する。

 

バーニングマンは時間を分けることで。

デフォルトワールドでの50週間と、バーニングマンでの2週間

 

というように。

 

ヨカミエについてもそうだと思う。

今、人間の生活圏と、手を付けない国立公園や保護区のような、自然。とを明確に区切ってしまっている。100%商業で使うか、100%手つかずでなければならないという考え。これは居心地が悪い。

 

ヨカミエ(自然享受権)界隈でも、オープンソースバーニングマンが発明したような、鮮やかな共存の仕組みを見つける必要があると思う。